世界の非認知能力
スウェーデンで校長も務める田中麻衣さんに、現地の非認知能力教育をきく(後編)
2023.10.18
予測不能な未来を生き抜くために育みたい力として注目を集めている「非認知能力」。偏差値やテストの点数、IQなどとは異なる、心や内面に関わる力を指し、創造性、自分を信じる自己効力、忍耐力、決断力、疑う力、コミュニケーション力、表現力、など、さまざまな力が含まれます。海外では、そのような能力はどうとらえられ、生活や教育に息づいているのでしょうか。今回は、スウェーデンで学童保育の再建、小・中学校の教頭・校長職を経て現在は就学前教育に携わっている田中麻衣さんにお話をうかがいました。
高校、大学と2度のスウェーデン留学を経て2012年にストックホルムへ移住。スウェーデンで放課後支援サービスの再建をしたことをきっかけに学校運営に携わる。ストックホルム大学にて校長資格取得。小・中学校の教頭、校長、教育コンサルタント企業運営を経験し、現在は二校の就学前学校で校長を務める。子どもも大人も学び、成長し続けられる組織づくりを目指す。教育現場で子どもたちの非認知能力を伸ばす実例とアイディアがたっぷり詰まった実践集「スウェーデンと日本発!非認知能力を伸ばす実践アイデアブック(中山 芳一、田中 麻衣、德留 宏紀 著)が2023年8月発売。
(この記事は、全2回のうち後編です。前編はこちら)
他者を尊重するスウェーデンの教育や評価の在り方
「空の瓶」から始まる日本、「詰まった瓶」から始まるスウェーデン
この「他者を尊重する」という考え方は、大人と子どもの関係においても同様です。スウェーデンと日本は、子どもをどういう存在として見ているかが違うと感じています。私はこの質問をいただくとよく瓶で例えるのですが、日本では子どもを空の瓶と考え、その中に色々なものを入れていく、大人が教えてあげるという関係性が強いように感じます。それに対してスウェーデンでは、子どもはすでに色んな中身が詰まっている瓶と考え、大人はそれに興味を持って取り出しては子どもと一緒に確認し、新しいものを入れていくというイメージです。瓶の中身も、同じであることは求めず、違うことが当然だという考えです。
実際の授業も、この考え方を元に設計されています。例えばPBL(Project Based Learning)などで、虫のクモがテーマだったとします。スウェーデンでは、まず子どもたちがクモについて何を知っているのか、どんなことを経験しているのか、どんなことが分かるようになりたいのかということの確認・共有からスタートします。これまでの体験や知識、学びたいことを出発点に、そこに子どもたちが主体となって活動し、新しい学びをくっつけていくというステップを踏みます。学習指導要領でも、達するべき状態は定められていますが、そこへ向かうまでの道筋は決められておらず、先生たちの裁量がとても大きくなっています。
子どもたちも評価に参加するスウェーデン
評価においても、評価される対象者を尊重するという考え方は変わりません。例えば、学校では子どもたちに評価基準を十分共有したうえで、評価時になると評価について面談をします。子どもたちには、何がどう評価されるのか、どうやったらもっと学びを深めることができるのか知る権利があり、先生にはそれを知らせる義務があると考えられているからです。また、テストの形式にも多様性をもたせることが大切にされています。筆記だけでなく、口頭、ディスカッション形式、プレゼンテーションなど、様々な形式を使うことで、子どもたちの力を最大限に出してもらいます。どう子どもたちの知識を引き出すのかというところも先生の重要な責任の一つ。何かができない、というとき、知識がないのか、知識の引き出し方が分からないのか、問題を読解する力がないのか。評価はこれらを明らかにしさらなる学びに向かうためのものであり、子どもと一緒にやるもの。大切なのは子どもが評価を理解し、更なる学びへの次の一歩が踏み出せることという考え方がスウェーデンでは根付いているように思います。
これは先生と生徒の間だけではなく、先生とそれを評価する管理職の先生の間にも言えることです。私も先生方の評価を行う立場ですが、成果だけでなく、子どもたちの学びのためにどう働きかけたのか、それが十分だったかを見ます。そして、評価の数字なりアルファベット自体を重視するのではなくその評価にいたった経緯を話し、認識をすり合わせてさらなる成長を目指してもらえるようにすることを大切にしています。
学びにおける主体性
スウェーデンでは、子どもたちの学びへの参画は学習指導要領にも明記されています。校則も決まっているものはほとんどなく、どんなクラスがいいクラスなのかを話し合ってから、それを達成するためのルールをみんなで決めます。何も決めず、ただ決められたことに従うことは、一見不自由なようでいて、うまくいかなければ人のせいにもできてしまう。子どもたちにとって学びに主体的であるということは、それに伴う責任が大きくなるということでもあります。
もちろん、良いことばかりではありません。目標とする状態に至るためのステップが明確に示されていないことで、先生によって大きな差が生まれてしまうこともありますし、丁寧な見取りによる先生方の負担も問題です。しかし私はこの教育と評価の在り方は、とても自然な、あるべき形の一つだと感じています。これからもスウェーデンで一人でも多くの子どもたち、そして先生の学びに関わり、さらなる学びや自分らしく生きるための能力の育成にかかわっていくことができたらと願っています。